アメリカ議会報告書とやらは「錦の御旗」か

中韓のみの批判ではないことを示したいが為か、安倍=強固なナショナリストと書いたアメリカ議会報告書とやらを振りかざしす一部マスコミを皮肉って、以前それを「錦の御旗の如く」と表現したことがあったので、まったく同じ例えを使った今日の記事にはやや驚いた。それはともかく、彼らのアメリカ様に対する卑屈なものの見方はなんとかならんかね。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130520/plc13052003120003-n1.htm

 今の憲法が施行された昭和22年5月3日、永井荷風が日記『断腸亭日乗』に書いた「感想」は、有名だ。「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし」。荷風とて、占領下の日本が憲法を押しつけられることは仕方ないと考えたかもしれない。

 ▼だが2年前まで米国に敵愾(てきがい)心を燃やし、戦ってきた日本人が、これをありがたく押し頂いている。その姿には「笑ふ」しかなかったのだろう。しかも戦勝国の米国が日本に押しつけたのは、憲法だけではなかった。歴史観や倫理観までがそうだったのである。

 ▼まず先の大戦の日本側呼称だった「大東亜戦争」の使用を禁止した。全ての出版物を検閲し「太平洋戦争」と書き改めさせた。大東亜共栄圏を目指すという日本人の戦争観を抹殺し、米など連合国側による「正義の戦い」だったことを日本人に教えこむ狙いだった。

 ▼さらに日本の新聞に「太平洋戦争史」を連載させるなどして、日本が「侵略国家」であるかのようなイメージをたたきこんだ。「東京裁判」がそうした意図で行われたことは言うまでもない。そして日本人も、戦前の日本を全て悪とする自虐的史観に染まっていったのだ。

 ▼現代でも日本の政治家らがそうした侵略史観や「従軍慰安婦」に疑問を挟むと、中国や韓国だけでなく米国からも批判の声が上がる。いまだ日本への「戦勝国」意識があるとしか思えない。むろん日米同盟は大切だ。だからと言って歴史観まで縛られていいわけはない。

 ▼もっとおかしなこともある。沖縄の米軍基地問題などで、あれほど「反米」をあおっているマスコミが、歴史問題となると、まるで米国からの批判、非難を「錦の御旗」のように振りかざす。「笑ふべし」ではすまない気がする。

産経新聞[産経抄](2013/05/20付け)より

まあ最近の産経にしてはおとなしい記事だが、興奮すると論理が飛躍するのがしばしばなので、このくらいがよかろう、と思う。

ちなみにこの新聞は自社の考えに対する異論も堂々と載せているので、公平かつ幅広い視点が提供され評価できる。

たとえば、社として憲法改正用件について3分の2から過半数への緩和を主張しているが、それに対する疑義の論文も臆することなく一面に載せている。

[人界観望楼](2013/05/20付け)

MITシニアフェロー・岡本行夫 憲法は改正すべきだが…
 日本国憲法は「不磨(ふま)の大典」ではない。「改正されたことのない世界最古の成文憲法」(4日付本紙)を、一度神棚から下ろして見直すべきは当然だ。

 現在の憲法は、前文からしておかしい。日本国の安全と生存は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」保持すると宣明し、従って自前の軍隊は持たない。北朝鮮や中国の振るまいを見れば、「日本さえ銃をとらなければ平和が保たれる」という憲法の認識が誤っていることは自明だろう。

 9条はもっとおかしい。13日付の本欄で、葛西敬之氏は「政府には国民の生命財産と国家の独立を『守る義務』がある。『守ることを許される』のではない」と書いた。明快である。「守る義務」すら明確でない現憲法の下で、自衛隊は「戦力」ではないとされる。だから日本にあるのは「戦車」ではなくて「特車」、「爆撃機」はなくて「支援戦闘機」だ。政府は舌をかみそうな言い方で自衛隊の合憲性と活動を説明してきた。憲法を変えずに法律や閣議決定を重ねてもツギハギだらけの安全保障体制になる。現在の憲法はできるだけ早く改正すべきだ。

 しかし、である。憲法改正の発議要件を「衆参両院の過半数」にまで引き下げるのはいかがなものか。総議員か出席議員なのかという差はあっても、「過半数」で発議できるなら法律改正手続きとほぼ変わらなくなる。「その先に国民投票がある」といっても、国民の気分は移ろいやすい。「風」が吹けば、右から左へと大きく変化する。やはり立法府の選良たちが発議するかどうかが決定的な意味を持つのである。

 憲法は国の最高法規だ。法律に何を書こうが、「これだけのことは絶対に守らなければならない」と定めるものだ。その憲法が下位規範である法律と同じ簡便さで改正発議されるのはどう考えてもおかしい。国家の基本方針が常に不安定になる。

 「3分の2以上」が厳しすぎるのなら、「5分の3」にしてはどうか。これまで与党が両院それぞれで5分の3をとったことはない。しかし乗り越える努力をすべきだ。話題の映画「リンカーン」は、リンカーン大統領が奴隷制廃止の憲法修正に必要な「下院の3分の2」を獲得するために、反対党の議員を個別に説得していく過程を描いたものだ。「上下両院の3分の2」プラス「全州議会の4分の3の承認」という厳しい条件の中で、アメリカは戦後6回、憲法を修正してきた。必要なのは、手続きの大幅緩和以上に、政治家の信念と情熱だろう。

 極論すれば、これまで「改憲」対「護憲」は、「右翼」対「左翼」の論争と受け止められてきた。日教組は「世界にただひとつの平和憲法を守れ」と子供たちに教え込んできた。一部のマスコミも、憲法を守るのは美しい人、変えるのは危険な人、というイメージを作ってきた。安倍晋三首相のおかげで、ようやく一般の人々が参加する国民的な憲法論議になってきた。さまざまな意見が噴出してくることを期待しよう。(おかもと ゆきお)


あるいは

[産経抄](2013/04/06付け)

 若気の至りとは恐ろしいもので、初めて見たときは巨匠も老いたなぁ、という陳腐な感想しか浮かばなかった。黒澤明監督が晩年にメガホンをとった「夢」は、バブル真っ最中の平成2年に封切られた。

 ▼「こんな夢を見た」という字幕で始まる8つのエピソードは、自称黒澤ファンを大いにとまどわせた。「七人の侍」や「用心棒」のようなテンポの良い血湧き肉躍る演出は影も形もなく、何度も舟をこいだ。

 ▼そんな退屈な映画なのに、最終章で笠智衆が、天寿をまっとうして亡くなった老女を「祝う」ため村人たちと踊る場面は、今でも鮮烈に覚えている。2年前に福島第1原発事故が起こった直後は、富士山が原発の爆発で赤く染まるシーンをとっさに思い出した。

 ▼巨匠は「夢」で原発事故を予知したのだろうか。そんな夢の不思議が、科学的に解き明かされる日がやってくるかもしれない。京都府にある研究所が、世界で初めて夢の解読に成功したという。

 ▼将来は画像の再現も夢ではないそうだが、ろくな夢を見ない小欄は、夢の中身をわざわざ画像にするなぞまっぴら御免である。さりながら、あの人がどんな夢を見ているのかは、こっそり知りたい。「無慈悲な作戦」を承認し、核戦争の危機をあおりにあおっている北朝鮮の3代目である。

 ▼3代目は、ミサイルの発射ボタンを押し、ワシントンや東京が火の海になる画像を夜な夜な見ているのだろうか。東京都町田市では、教育委員会朝鮮学校生徒への防犯ブザー配布をやめたが、当たり前の話である。かの地出身の同胞は「差別はけしからん」と騒ぐ前に、胸に手を当ててよく考えてほしい。子供に罪はないが、悪夢の発生源をいまだに崇拝している親たちの責任は重大である。

朝鮮学校への防犯ブザー配布中止を支持したコラムに対し

[新聞に喝!](2013/04/14付け)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130414/kor13041411000002-n1.htm

朝鮮学校への防犯ブザー配布中止は国益でない 「憧れられる日本」推進を

京都大学産官学連携本部客員准教授・瀧本哲史

 これまで、産経にエールを送ってきたので、今回はあえて苦言を呈したいと思う。

 東京都町田市の教育委員会北朝鮮をめぐる社会情勢などを理由に朝鮮学校の児童に防犯ブザーを配布しない決定をしたことをうけ、6日付の産経抄はこれを「当たり前」と評した。最終的に町田市は決定を撤回し、防犯ブザーを送付した。普段の論調において、朝鮮学校への支援に対して疑問を呈するのは産経の戦略であろうから、それ自体は批判しない。ただ私は、ブザー配布中止に賛成するのは、長期的な国益という点で得策ではないのではないか、保守論壇をリードしようとする産経であれば、もっとよい戦略を提示できたのではないかと残念に思うのである。

 そもそも、北朝鮮による国際法違反行為は、ブザーを受け取る児童たちには何の責任もない。親が不法な政治体制を支持しているからといって子供を罰するのは、近代国家の原則に反する。

 皮肉なことに、そうした親たちは親類を人質にとられ、現体制に脅されて服従しているものもおり、こうした北朝鮮の反近代法的な発想と五十歩百歩になってしまいかねない。北朝鮮に送金している親への経済援助は体制支援とも言えるが、ブザー代では銃一つ買えないだろう。

 むしろ、今回、町田市が防犯ブザーを配るのをやめていれば、反日教育の材料を増やすことにもなった。つまり、親や学校が子供に「日本は、お前らを見捨て、危険な目に遭っても構わないと言っている。だから、北朝鮮についてきなさい」と諭す宣伝戦に利用されかねない。

 北朝鮮体制崩壊を長い目で見越せば、朝鮮学校の児童たちは、日本社会とどう関わっていくのかを真剣に考えるタイミングが来るだろう。そのとき、われわれが発したメッセージは、彼らの人生を大きく変える。

 「独裁者によって自由を奪われる国と違って日本国、日本社会は、君たちを“個人として尊重”している。親がどうであれ、国がどうであれ、君たちの安全にわれわれはコミットしている」というメッセージを発信していれば、彼らは日本に生まれ育ったことに感謝し、誇りに思うだろう。逆に、彼らを否定すれば、体制が倒れた後に彼らは行き場を失い、別の過激な活動に走るかもしれない。

 優れた国家は、その理念に国民が賛同し、国民が協力し、その徳と理念で、他国民すら国民になって、その国に貢献したくなる。明治期あるいは高度成長期には日本にもそういう時代があった。保守論壇産経抄は、「憧れられる日本」を推進すべきなのではないのだろうか。

と言った風に。

別に新聞の宣伝をしたいわけではないのだが、筆者は保守と言うのは多様な議論が認められてこそ保守であると思っている。
また、読者の視野を広げてこそ、言論機関ではないだろうか。

インターネット上で公開している以上、引用もとの記事はどうしても無料で公開されているものに限られる。大手紙の多くのウェブサイトは、記事を有料制にしているので、たとえ紙面で読んでいても引用できない。すると、記事を無料で公開している新聞社や通信社のページからの引用がどうしても多くなってしまう。大手紙も読める範囲を増やして、どんどん公開していったほうがいいと思う。利用者の囲い込みは、論壇の活性化につながらず、いずれ存在感を失ってしまうだろう。